mamimumeo

Thethirdmemory

岩永天佑「告発の書」

【1-1】

日本で今、何が起きているのか。限度を超えた円高が不況に追い打ちをかける中、阪神大震災後の復興に息をつく間もなく出現したテロリスト集団オウムにすべての日本人は翻弄され続けている。経済発展の象徴、世界一安全な国日本、この神話は、今や音を立てて崩れ去ろうとしている。

 

海外の目、あるいは一般の日本人の目からみても、今の日本の現況を推察させれば、以上のようなものになるに違いない。だが、多勢の意見が正しい推察になるなら、何の杞憂もなく日本は未来永劫繁栄を謳歌できるであろう。日本経済の凋落の予兆をよそに、連日連夜マスコミの紙面の大半を占めるオウム報道。だが、そのどれもが反証すらない一方通行的なものである。実際のところ一体なにが起こっているのか。真実を知りたがっている日本国民は大勢いるはずである。その意味でこの『書』を手にすることの出来たあなたは幸運である。この『書』には虐待、黙殺された側の論理が展開されている。この「論理」をあなたに押しつける気は毛頭ないが、少なくとも“黙殺する側の論理”と対比させることによってより公平、中立的な見方を提供できるものと確信している。オウムという集団は間違いなく日本の将来を決めるカギを握っている。それを潰すのももちろん日本国民が決めることだが、それは“事実”を知ってからでも決して遅くはないであろう。この『告発の書』は、以下の村井秀夫の死に関しての「糾弾」から始まる…。

 

告発の書

周囲は凄まじい喧騒に包まれていた。女性レポーターが金切リ声を上げながらエメラルドグリーンの服の男に近づく。それを合図にしたかのように、周囲を陣取っていた取材スタッフの一群が男の前方の僅かな空間になだれ込む。男は一瞬よろけたが、態勢を建て直して再び歩き始めた。群衆を押し分け進んでいると、突然ひとりの暴漢が男に掴みかかった。怒声が飛ぶ。男が歩みを止めたその時、暴漢の刃が男の左腕をかすめた。男は顔を顰めて左腕持ち上げ覗き込む。かすめたはずの腕には血がにじんでいた。その刹那、今度は暴漢の凶器が男の右わき腹を直撃した。一瞬よろけたように見えたエメラルドグリーンの男は、凶器が直撃したわき腹を押さえながら前方の建物に消えていく。騒然とした雰囲気の中、暴漢は、凶器を渇いた路面に投げ捨て仁王立ちしていた。

 

4月23日夜、マンジュシュリー・ミトラこと村井秀夫は、予定通り何者かが解き放った刺客の刃に倒れ、そして予定の場所に運ばれた。翌夜半、村井氏が息を引き取った、いや正確に言えば引き取らされた“広尾病院”なる密室で何が行なわれたのか。大多数の日本人は、治療が行なわれたに決まっていると答えるであろう。果たしてそうであろうか。実際何が行なわれたのか、少なくとも院長は知っているはずである。その良心に尋ねるならばこう答えるであろう、何もしなかった、と。唯一、言えることは、村井が刺客に襲われた時点で死は“確定”していたということである。幸運にも刺客の一撃が村井の腹部に到命的タメージを与えた。だが、この出来事は“広尾”の一部のスタッフにとっては“手間の省略”でしかなかったのである。この省略は、形式的な、治す意図など全くない手術のふりと、ただ死を待つだけの15㍑大量輸血という異常なパフォーマンスという形をとった。重傷の場合は出来るだけ長く放置し、治療は輸血のみという“何者か”の指示通りに。軽傷の場合は、もちろんスタッフに紛れた間者の手による薬殺が待っていた。この意味で院長関与の直接殺人はなかったと言えるかもしれない。だがどっちに転んでも村井氏には死の呪縛から逃れることの出来ない運命が待っていた。オウムの信者の中には、麻原尊師のパワーを注入すればなんとかなるのでは、と思った者がいたであろう。だがそのような願いが決して通じないような段階にまで確実に誘導してくることに悪魔の謀略の凄まじさがある。あの状態で6時間も延命できたのは正に奇跡と言えよう。異能集団の神通力の賜物なのか。だが悪魔のパワーはそれを遥かに凌駕していた。結果としてマンジュシュリー・ミトラは悪魔軍団に完全包囲された挙げ句討ち死にしたのである。壮絶な最後であった。

 

以上は村井氏襲撃後に起きた、あるいは起きるはずであった事実と予測の表層の一端である。これをして的確な推理などというおこがましいことを言うつもりは全くない。このような推理にもならない“憶測”に対しては多くの反論があるだろう。荒唐無稽であるというのがその大半を占めるに違いない。しかし残念ながら、“村井刺殺”にまつわる出来事は全て、大多数が一笑に付して終りに出来るほど単純ではないのである。底なしのカラクリに覆い尽くされているからである。「ユダ」にやられたのか、あるいは「ユダヤ」にやられたのか。この村井刺殺の真相については、村井刺殺犯の正体と合わせて、この告発の書の最後で明らかにするつもりである。先の“憶測”が荒唐無稽であるかどうかはその時まで留保しておいていただきたい。

 

ここまで読み進まれて、この告発の書の告発者である我々の正体に関して、そろそろ気になりだした方がおられるかもしれない。ごもっともである。その疑念の大半は、我々が、オウムの回し者ではないのか、とか、ありきたりの謀略論を並べ立て有頂天になっている推理おたく、マニアの類いではないか、などといっ

 

【1-2】

たものであろう。この二つの疑念に対して、まずはそのどちらでもないと申し上げたい。我々はあくまで黙殺された者たちの代弁者であって、それ以上でも以下でもない。黙殺された者たちの意見などに耳を貸すつもりはないという方がおられるならば、以降決して続み進まれないでいただきたい。この場でこの告発の書を破り捨てるなり、燃やすなりするように。我々の忠告を無視して、敵意を抱きながら読み進まれた場合、“発狂”する恐れがあるということを警告しておく。我々は命を賭けてこの書を作成しており、精神波動が我々と対極に位置した場合の身体の保障は出来ないということである。ただし、大多数の良識ある日本人は、これには当てはまらないであろう。

 

我々が特に対象としたいのは、『悪魔』が関与した「中川藍殺し」の真相を知る者達である。一体、この日本に、この女児の死の真相を知る者が何人いるのか。もちろんその行為、関与者の数ではない。この真相を理解し、かつこの悪魔の犯罪を白日の下にさらけ出そうと日夜献身的活動を試みている人達のことである。なぜ“特に”なのか。それは、この女児殺しの真相の解明こそが、村井秀夫暗殺の真相に直結するものだからである。連日、一億二千万国民を巻き込みながら、一方的に糾弾されるオウム関与の殺人疑惑、それはそのまま久間三千年と中川藍殺害容疑に相似的に対応するものだからである。知恵のあるものは、このマクロとミクロの両者の疑惑形成の過程が瓜二つであるという驚くべき事実に気付くであろう。次なる我々の対象は、いかなる偏見、先入観にも捕らわれることなく、真実、真理を探究、追及している者達である。三番目の対象が、オウムを疑いつつもマスコミの偏向報道にも疑念を持つ者達。最後が自ら情報統制が出来ず、社会情勢、警察発表、マスコミ報道を鵜呑みにしてしまう人達、ここまでを対象としたい。この範疇に恐らく全日本人の9割は含まれるであろう。第五の無関心層、第六の我々に敬意を抱くものは除外させていただく。

 

オウムのいう仏教的な位置づけからいけば、上から大乗精神、小乗、人間、餓鬼、畜生、地獄ということになるのであろうか。大乗精神とは真理に到達した自己を犠牲にして他者を救済する者であり、小乗とは真理のみを極めた者、以下順に、中立的な判断、欲望(情報)の統制ができる者―人間、情報の統制が出来ず、欲望の赴くままに行動するもの―餓鬼、無関心、無智なもの―動物、真実や真理に敵意を抱くもの、それを妨害するもの―地獄となるのか。これは確かに現日本人、いや世界60億の人間の有り様の縮図でもあり、真理の一端を表している。現世界におけるこの大乗、小乗の価値付加は、釈迦の教えを忠実に具現した原始仏典を基に、「殺人鬼」麻原彰晃が実践すべき休系である「出家制度」として、現代日本において最初に復活させたものだが、それはまさしく我々が想定していた原始仏教理論と合致したものであった。ここで我々の立場を明らかにしたい。我々はオウム真理教徒ではない。オウム風に言えば、真実、真理の探究者であると同時に大乗理論の構築を試みる者ということになるであろう。もっとも我々とオウムとでは次元もそのアプローチの仕方も違うであろうが。

 

真理とは絶対のものであり、悪魔的、ユダヤカバラ的アプローチを試みようと、またキリスト教的、神道、仏教、密教的アプローチを試みようと絶対不変の唯一つのものなのである。もっとも現在の宗教はほとんどが形骸化、あるいは真実、真理に到達させないような様々な仕掛けや罠が施されており、真理到達への道はおろか、一度足を路み入れたなら永久に抜け出すことのできない無限迷路のようなものに変貌してしまっているが。これは現代において、過去からの悪魔の呪縛力がいかに絶大なものであったかの証明であろう。この意味で宗教とは本来一つのものであった。いや宗教など元は存在していなかったのである。なぜなら真理とは既知のものとして万人に共有のものであったからだ。他者の真理を強奪、己のみが独占、秘儀として永久封印する。ここに悪魔的意義が存在する。他者を陥れ、あるいは他者を犠牲にして、己の願望のみを成就するために己の私物として真理を利用する。これこそ悪魔の生成過程に他ならないのである。悪魔からの真理の奪還、ここに全正統宗教の発生理由と存在意義がある。

 

かつてイエス・キリストは、真理を独占し真理を知らぬ大多数をゴイム(=豚)として永久支配しようと目論んでいたユダヤサドカイ、パリサイ派に敢然と戦いを挑んだ。イエスの為した活動はまさしく大乗理論の実践であり、万人への福音であった。真理は万人に開かれたもの、これがイエスの主張であった。だが志半ば、イエスはサタンの奸計に倒れた。謀略裁判によってでっち上げられた死により、イエスは謀殺されたのである。あくまで正義は真理の保持者の側にある。それが例え悪魔に由来しようとも。結果としてイエスは教済に失敗した。ユダヤパリサイは、イエスを「反逆者ルシファー」として封印したのである。ここに明けの明星の由来がある。それから約1900年後、再び真理の奪還を挑んだ者がいた。「宵の明星ベスパー」ことアドルフ・ヒトラーである。彼が戦いを挑んだのは何者であったか。アッシリアバビロニアサタン、ユダヤパリサイの系統、その手駒としてのフリーメーソン、その落とし子としてのマルキシズム、少なくとも本人はそのつもりであった。だが、封印された救世の法、末法の世、魔術的なアプローチが彼を待っていた。彼の分魂、山本五十六と共に行なったつもりであった「救済活動」、結果は人類を破滅に導くものであっ

 

【1-3】

た。すべてはユダヤパリサイの掌中にあったのだ。悪魔の手のひらで彼らは踊らされていたのである。

 

そして現在、真理を独占するユダヤパリサイの系統と、その手中に握られた世界60億家畜人。永続的に境出する地域紛争、災害、止まることを知らない環境破壊、汚染、地球生物種の激減、波状的に広がる飢餓、奇病の蔓延、すべては悪魔の願望成就の結果なのである。日本は平和であると。仲間をいじめ殺す子供達、自己中心的な享楽主義者どもの群れ、退廃した性道徳、物質万能主義、ロボットと化した官僚、国家中相を生耳る売国奴の集団、すべては精神性の退廃、霊性の退化、悪魔に真理を抜き取られ盲目にされた結果なのである。日本人は一億総餓鬼、畜生、地獄と化したのか。どふ川を心地よさそうに泳ぐ鯉が、実は己自身の姿を投影したものであることに気づくべきであろう。富の一極肥大化とそれを支配するもの、何も持たない、いずれ屠殺される運命にある60億家畜人。この構図こそ、サタンの系統ユダヤパリサイ6000年の恒久不変のテーマであった。このものたちは、古代日本を中心に世界各地に散らばっていた奥義、真理を吸収した後、己の私物として根こそぎ強奪、痕跡すら残さないように徹底的に破壊し、その密儀の一部をカバラ体系として封印した。その最奥義は直伝として、今尚このものたちの掌中に握られている。この最奥義こそ、このものたちの願望する世界創造のための最高の手段でありアイテムなのである。今、現出している地球環境と創造世界は、サタンの願望成就のための一時的過程の反映に過ぎない。餓鬼、畜生、地獄の世界の生成過程とは、サタンの願望達成までの老廃物、廃棄物の蓄積の数理に他ならない。なぜ世紀末、破滅なのか。サタンが覇権を握っているからである。サタンの欲望が無限である以上、悪魔的汚物も無限に排出されよう。餓鬼、畜生どもがこの悪魔の汚物の毒素に耐えられなくなった時、それが破滅の時である。

 

現在、ユダヤパリサイ系サタンは、己の願望を現象化させた創造世界を99%以上完成している。願望完全成就のための全世界の富の独占、60億家畜人支配まで残り1%未満である。この残り1%未満は、真理を大木としたかつての世界正統文明継承の象徴であった16弁菊花紋乗っ取りによってまさに今達成されようとしている。伊勢神宮の灯籠に刻まれたかごめ紋とヘロデの紋は何を意味するのか。かごめ紋とはユダヤパリサイが己の私物とした強奪紋であろう。ヘロデ紋とは、イエスの師であったヨハネを斬首した呪われたヘロデ王の紋である。第二次大戦敗戦後、突如出現したこの二つの紋こそ、サタンの勝利の証しであり、皇室強奪、粉砕宣言に他ならないのである。日ユ同祖の“真”の真意はここにある。国際規格に適合する「日ユ同祖論者」とは、ユダヤパリサイの皇室強奪容認論者のことである。この者達の望むのは、サタンに強姦されたアマテラスである。この間者の目論むものは文字どうりの姦計である。このものたちのいう「千年王国」とは古神道、釈迦、イエスと脈々と受け継がれてきた偉大なる救世の法を封印、闇に葬り去り、統制不能な人間を一人残らず抹殺し、残りをすべて家畜人として永久支配することに他ならない。

 

一億日本人はこのままサタンの手に落ちるのか。否と言いたい。幸運にもサタンの手に落ちる寸前、間一髪のところで封印されていた救世の法を復活させた者がいた。麻原彰晃である。 ユダヤパリサイ公認の『ヨハネの黙示』の秘密を暴いた男、太古神道、釈迦、エッセネ派、岩男、黒住、大本の系統であるオウムの創始者、この世紀末、古今東西の予言書に記されている救世主なるものが仮に現実の世界に具現化するものと仮定するならば、一般大衆への認知という範疇においては、この賢哲、「殺人鬼」をおいて他にはいまい。麻原教祖が救世主であると?持ち上けすぎではないのか。恐らく一般日本人の99、999%は異議と疑念を表するであろう。地下鉄に毒ガスサリンを散市するよう指示した悪魔の黒幕ではないのか、と。だが、よく考えていただきたい。仮に麻原が悪魔であったとするならば、なぜ、悪魔が覇権を握り創造したこの世界において、悪魔自らその正体を暴露され、誹謗と中傷の嵐にさらされなければならないのか。逆説的に考察してみると、ここに大いなる疑間が生ずるのである。悪魔とは常に謀略を仕掛ける側であって、謀略によって窮地に立たされる部ではない。99、9999%の悪魔の包囲の中でこそ、救世主たる存在意義がある。泥沼に咲く蓮華のごとくに。本物のアンチキリスト=偽メシアが、“破滅”という目的を達することなしに、通常の人間ごときにその正体を果たして見破られるであろうか。かつてのヒトラー、五十六がその何よりの答えであろう。いつの時代も悪魔は、決して気付かれないように人間にとりつき破滅に導く。オウムが信者を洗脳していると?全ドイツのナチス礼賛、一億総国家神道、偽メシア=サタンの手による本物の洗脳とは、こういうことを言うのである。オウムの子供だましの洗脳疑惑などとは次元が違うのである。サタンによる洗脳は、例外なく、個への災いのみならず国家的破滅に導くものなのである。

 

第ニ次大戦前夜、大本教はなせ粉砕されたか。ユダヤパリサイサタンが油注いだ偽メシアヒトラーの分魂、五十六の肥大化にとって障害であったからに他ならない。2・26事件を仕組んだのは何者であったか。この奸計に巻き込まれた真の皇道派、国枠主義者は一掃され、サタンの寄生魂五十六の円滑なる活動のための下地が作られた。五十六にとりついたユダヤパリサイサタンに嵌められたのである。大本が潰されず、2・26事件で皇道派が粉砕されなければ、果たして真珠湾攻撃はあったであろうか。悪魔のシナリオにのった

 

【1-4】

が故に、日本全士は焦土と化したのである。今、再び同じ歴史を繰り返すのか。かつてシュメール、アッシリアバビロニアを退廃させ、釈迦を封印したサタンの系譜、この系譜こそが、イエスをでっちあげた罪で謀殺、大本を粉砕し一億国民をを地獄の入り口まで引きすり込んだ真の黒幕である。今、再びメシアの最有力候補のひとりに殺人罪なる濡れぎぬを着せ、闇に葬り去ろうとしている。仮に全てのメシア候補がサタンに敗れるようなことがあれば、この地球は未来永劫サタンの巣窟となろう。すべての家畜人は、悪魔の肥え溜めの中でやがて窒息するであろう。われわれは神=創造主に見捨てられるのか。いや、見捨てられるのではない。われわれが神を見限って悪魔に付き従ったのだ。メシアの救済の失敗とは、救済される側の拒否、裏切りであり、メシアそのものの敗北を意味するのではない。イエスの磔刑後の復活はこのことの寓意である。命を賭してもサタンを拒否するなら、その者は小乗的には既に救済されていることになり、ヨハネの黙示に登場する楽園はミクロ的には既に成就したと言えるかもしれない。ただし、これは勿論、大乗的救済という意味においては紛れもなく敗北である。

 

現在、日本に端を発したこの大乗的救済活動は、サタンの手によって徹底妨害され、もはや風前の灯火である。このままでは全人類が破減に向かう可能性が極めて高いと言えるだろう。不可避的なこの地獄への一方通行路を奇跡的に回避するためには、ひとりでも多くの人達の覚醒が必要なことは勿論であるが、そのためにはまずサタンの謀略の“真の型”を見抜く必要がある。これを見抜いて初めて、サタンと同じ土俵に立てるのである。

 

ここでわれわれは、サタン実在の痕跡、すなわち1992年2月21日を皮切りに、凄まじいスピードで日本各地において顕在化してきた“戦慄の儀式”の真相を白日の下にさらけ出さなければなるまい。その鍵となるものとはすなわち、1年半前、“花木 日出夫”なる人物が海南警察署長に送りつけるはずであった“サタン実存の証明”とも言える以下の驚くべき内容の手紙である。今初公開する。

 

ボエド委員会 “7山(路線バス)連続象徴殺人” 報告書

海南警察署長殿、我々は、8月28日[1993年]に貴志川で起きた「園児4人変死事件」を、一連の“血塗られた痕跡“ の一つと断定した。 唐突に何を言い出すのか、とお怒りの顔が浮かぶようなので、この件に関して順を追って説明したい。

 

今回の事件が、地方の市町村で起きた“悲劇的な事故”というのが警察も含めての「大方の見方」であろう。「大方の見方」であるがゆえにあたかもそれが真実であるがごとく伝えられることがあるが、多くの場合、それは錯覚と呼ばれるものである。己が真実を見たわけでもないのに他の不特定多数の意見に知らず知らず同調してしまう、99人まではこの「集団暗示」なるものにかかっても残るひとりだけは真実を見ていた、今回の事件もそういった類いのものであろう。 一市町村における“単なる事故死”という固定概念に捕われていては、今回の事件は100年経っても恐らく解決しないであろう。真実を掴むにはミクロ的な視点からマクロ的な視点へ、さらには時空と場所をも超え得る飛躍が必要である。 もちろん今回の事件の真相に到達するためには時と場所を超えなければならない。我々が真実を見たことを証明する動かぬ証拠、否、“血塗られた痕跡“が過去の日本各地にいくつか散在しているからである。 警察署長として記憶にはまだ新しいことと思われるが福岡県飯塚市の『小一2女児殺害事件』(いずれも当時7才)もそのひとつである。「大方の見方」が「性倒錯者によるゆきずりの犯行」というものだが、これには「宮崎事件」という条件反射的固定概念に加えて、「幼女殺し=変質者」と頭にインプットされたマスコミお抱えの精神なんたら学者の罪があったことも否めないであろう。警察ですら「幼女に興味を抱く変質者のリストアッフ」という、捜査の初歩で重大なミスを犯すお相末さである。常識的に考えて、変質者(性倒錯者)が時間的誤差はあろうが、ほぼ同時に2人に手をかけて己の性的欲望を果たすことなどはまず有り得ない。オレンジジュースとコーラを同時に飲んで咽の渇きを癒す者がいないのと同じ事である。ひとつの欲望に対して普通、対象物はひとつである。そして欲望に対する充足度が大きければ大きいほど、次なる欲望の発生までの時間的格差は広がるものである。 こう考えただけでもこの事件が変質者による犯罪などではなく、殺すこと自体が目的の“象徴殺人”(これは日本では極めて馴染みの薄い言葉だが、国家のイデオロギー基盤が宗教概念で構成されている欧米などでは極めて頻繁に起こり得る“セレモニー殺人”、言葉を変えれば“生け贄”と呼ばれるもの)であった可能性が出てくるのである。 ではこの事件の犯人は2小女(7才)の“死”をもって何を“象徴”したかったのか。

 

【2-1】

この事件と後に述べる「熊取」の意味、以後の“セレモニー殺人”続発の危険性について我々は、1992年7月4日付けで首都圏の主要マスコミ各社に封書で警告している(もっとも表向きはまったく黙殺されてしまったが)。その内容の詳細についてはその中のひとつである信頼すべきNHKニュース21(当時)にも殴り込みをかけているので、興味のある方は問い合わせてみていただきたい。[4行削除]

その真相のすべてを語り尽くすことは分量的に見てもここではとても不可能なので、キーになる特異的事実のみを挙げるにとどめたい。 それはすなわち、殺害された2小女の父親のひとり、中川雅彦氏の発案、いやほとんど霊感と言える「7年7月7日しか生きれなかった我が娘」と呼ばれる名文句である。すべてはここから始まるのである。さて、この犯人が“象徴”させたかったものはおぼろげながらつかめてきた。しかしこれは事実とよべるものであって、真相とよべるようになるまでにはさらに忌まわしき関門=“血塗られた痕跡”を検証する必要があろう。 「7年7月7日キッカリの中川藍殺し」がその一つであることは既に述べたが、決定的なのが大阪府泉南郡熊取町で、これもまた1992年度に入ってから起きた、『若者7人連続怪死事件』である。この怪事件の詳細に関しては各マスコミが連日、「熊取初7日自殺」として大々的に報道していたので、既に御存じの事と思うが、念のため事件のあらましを要約すれば、5月までの少年2人の変死(いずれも当時17才、警察発表はシンナー吸引を伴う事故死)の後、6月の1ヵ月だけで何と4人が熊取町内で連続首つり白殺(バイク仲間の少年3人と22歳の地方公粉員、特にバイク仲間の少年3人に関しては6月4日、6月10日、6月17=7・7・7と妙に7を意識した奇妙な死に方をしている。公粉員は6月25日)、最後が7月2日、女子体育大生の胸に果物ナイフが刺さって路上で失血死した(警察発表はまたもや「自殺」である)というものである(バイク仲間の3人と合わせれば、ほぼ1週間おきの5週連続自殺となる)。6月10日、17日の2人の少年と体育大生に関しては、かねてから「不審な車に跡をつけられている」と身内や友人に打ち明けているにもかかわらずにである。都会ならまだしも、なぜローカルな平和な田舎町でこのような「怪事件」が続発して起こらねばばならなかったのか、誰もがミステリーであり、疑問である、と思うであろう。しかし我々に言わせれは決してミステリーではないのである。ましてや偶然などでも決してなく、起こるべくして起こった事件なのである。しかも絶対に“熊取町”で起こらなければならなかったと言い切れるのである。

 

この真相を明かす前にもう一つの「怪事件」に触れておきたい。仙台の中学同窓の『3高校生連続自殺事件』である(それぞれ2月9月、4月1日、4月9月、2人が自宅、1人が物置)。「連続自殺」となっているが、もちろん警察発表が、である。警察が変死事件を確率的に見て、殺人よりは「自殺」としてかたづけたい気持ちは分からなくもないが、自殺(事故)の目撃者がいない以上はすべて殺人の可能性も含めた変死事件として扱うべきである。例えばこの場合、何者かが(恐らく2人以上が)自宅に忍び込み、一人でいる少年を縛り上げ、脅して「遺書めいたもの」を書かせた後で、絞首刑のごとく処刑したとも十分に考えられるのである。これらが「自殺」か殺人か、という疑問はさておき、奇妙なのは「彼ら3人がクラスは違うが同じ中学の同窓生だった」という事実だ。もちろんこれだけでは確かに奇妙であり、ミステリーではあるが、有り得ないことではない、非常に確率は低いが偶然の一致である、と反論の余地があるだろうが、じつは彼らも“7”に関連して死んでいるという次の事実を挙げれは、偶然だ、などという反論の余地などもはやないであろう。そう、彼ら3人はすべて仙台市立“7郷”中学の同窓生なのである。しかも「第7中」というような形容詞的なものではなく、“7郷”というのが固有の名詞であることに注目してほしい。7を固有名詞にもつ学校などそう多くはあるまい。7郷・7郷・7郷=7・7・7。 これら“血塗られた痕跡”の数々をつぶさに検証し直してみると、もはや偶然と呼べる範疇を超えた、ある“ひとつの象徴”を誇示すべく解き放たれた宇宙生物とも呼べる悪魔のような化け物のどす黒い影が如実に浮かび上がってくるのだ。 唯一言えることは、少なくとも「これらの事件」が決して偶然などではなく、“7”を意識した、いや意識しなけれはならない何者か、恐らくは何らかの組織による意図された計画的犠式、いや、“犯罪”であったということである。「熊取の初7日自殺」の3人が“仲間”でなければならなかった理由もここにある。何者かにとっては7・7・7、この“・”の結びつきが絶対に必要だったのである。さて、署長殿、ここまで読み進まれたあなたは恐らく戦慄を禁じ得ないであろう。それは無理もないことである。何しろこれを書いている我々ですら底なしと言っていいくらいの恐怖を感じているのだ。しかし我々のさらなる検証を勇気を持って見守っていただきたい。貴志川の忌まわしい出来事は果たして“事故”なのか。

 

【2-2】

すでにお気づきのことと思われるが改めて愕然としていただきたい。もちろん園児達は7に関連して死んでいる。しかも極めつきの“7”で。ななさと・ななさと・ななさと・ななさと=7里・7里・7里・7里。園児たちが“仲間”でなければならない理由は既に述べたとうりである。しかもこの園児達はすべて“7山”出身者ではないか。7山・7山・7山・7山。もはや返す言葉もないであろう。同時に熊取に関しても真相を述べておく。先に我々は熊取で起こるべくして起きた事件と述べた。そう、地図を広げて調べてみてほしい。驚愕すべきことに熊取にも“7山”が存在していたのである。先の「怪死した7人」は“熊取7山”を“象徴”すべく“何者か”の手によって“生け贄”として貢がれていたのである。

 

7山・7山・7山・7山・7山・7山・7山。

 

熊取の警察がすべて「自殺」と断定したのは、“象徴殺人”という概念が完全に欠落していたからであり、まさに犯罪的捜査ミスを犯してしまったと言えよう。 これらすべてを総合して検証してみると、先の少女のひとりは7・M生まれ(逆算すると7月13日生まれということになろう、12、ないし14の場合もあろうが)―7・Mt―7山での7年7月7日という具合に7という“時”を暗示させるものであり、後の3事件はそれぞれ“7郷中学“、“7山病院前”、“7山”という具合に7がつく路線バスの停留所名にも象徴される町=“場所”を暗示させるものである。加えて7郷に関しては同時に儀式に貢がれる被害者の出身校名にもなっており、今回の事件ではななさと・7里保育園児が被害者となっている。[5行削除]

さて、所長殿、恐ろしいことだがこれら“血塗られた儀式”は、これから以後も確実に起こり得るということを申し添えておかなけれはならない。この“4つの血塗られた儀式”だけですでに“16人”の少年、少女達の尊い命が悪魔の手によって葬られているのである。傍観しているだけではこれから以後もさらに犠性者の数は確実に増えることになろう。 我々が以上述べてきたことは、にわかには信じかたいことかもしれない。しかしこれは現実に起こったことであり、すべて事実なのだ。事実は事実として率直に受け止めてほしい。と同時にこれら“血塗られた儀式”は、日本のすべての警察に対する“挑戦状”でもある。警察がこのまま静観を続けるならば、もはや人間とは言えないこの悪魔のような邪悪な生物はさらなる凶行を続けることになろう。日本の警察も舐められたものである。日本の警察はここまで地に堕ちてしまったのか。そうではあるまい。ここはひとつ日本の一警察署長としての最後の意地をみせてほしい。この「悪魔のような邪悪な生物」に一撃を食らわせるのである。この「忌まわしい出来事」は何者かの手による“犯罪”であった、と世間に公表するのである。そうでなけれは殺された4人のちいさな御霊は永遠に浮かばれないであろう。また、そうすることによってこの邪悪なる生物の活動範囲を狭めることもできる。少なくとも今後、7山周辺では活動しにくくなるに違いない。内密に警察だけですべてを対処しようと思ってはいけない。市民レベルでの連携が必要である。「単なる偏執狂的な一個人の手による猟奇殺人」といった類いのものではないからだ。「極めて結社的、また宗教的色彩の濃い、とてつもなく巨大な組織の手による犯行」と言えるからである。恐らく犯行の実動部隊はこの「組織」が雇った「プロの殺し屋」の手によるものであろう。単なるヤクザ的な殺し屋ではなく正真正銘のプロの殺し屋である。この「手」にかかれば、“殺人”を絶対ばれないように「自殺」や「事故死」に偽装することなど、赤子の手をひねるがごときであろう。ただし、「7郷」に関しては、一人目の彼は“本当の自殺”だった可能性がある。この「悪魔」が“7郷”でターゲットを選定中、たまたま自殺され、ターゲットをこの自殺者の周辺に絞ったとも言えよう。(これは3人の殺された日付のずれから推測されることである)。7郷中出身者なら誰でもよかったわけであるから、一人殺す手間が省けたというわけである。もし彼が自殺していなけれは、全く別の7郷中出身の3人が仲間、あるいは近所同士という結びつきで、全く違った形で死を迎えていたに違いないのである。

 

今回の事件でも“7山”出身の“7里”園児なら誰でもよかったわけであるが、この4人に関してはかなり以前からターゲットにされていた可能性がある。4人ともが自転車を持ち、行動範囲が広がるということは、この「悪魔」の、殺害のための選択の幅も広がるからである。今回の事件では熊取同様、恐らく殺人に結びつけることのできる物証も痕跡も何一つ得ることはできないであろう。何しろ相手はプロなのだ。我々は、複数の殺し屋(一人の可能性ももちろんある)が巧妙な手口で川岸まで誘い込みその場で次々と“溺死”させた、とみている。あるいは以前から監視していたこの「悪魔」が、本当に川岸に遊びにいったのを絶好のチャンスと認識し凶行に及んだとも考えられる。この点については遺族に、この幼児達が過去に川で水遊びをしたことがあるのか否かを問いただす必要があろう。否なら、「巧妙な手口で誘い出した」ことになる。いずれにしても捜査の重点を、過去この園児達(すべての7里園児も含めて)につきまとった不審人物、特に7山周辺での不審な車についての住民からの徹底的な間き込み調査におくことが正しい選択といえる。我々は今、これら“血塗られた痕跡”を次のように定義したい。“7山路線バス連続象徴殺人”と。

 

【2-3】

世界一優秀と言われ続けてきた日本の警察がなぜ我々が指摘してきたごとき“失態”を犯し続けるのか。それは日本の警察の、殺人に関するマニュアルに、“象徴”(生け贄)という概念が欠結しているからにほかならない。日本の殺人と言えば、身の代金誘拐、保険金、強盗殺人、怨恨(内ゲバ、ヤクザ闘争などを含む)、通り魔などによる殺人(性犯罪などを含む)、親の手による心中的殺人(経済苦、精神苦的な殺人を含む)、後はゲリラ活動に伴う致死的殺人、国家テロ的暗殺くらいのものであろう。幼児が4人水死体で見つかった、では事故死か、殺人か、ということになる。外傷も着衣の乱れもない、上述したどの殺人の定義にも当てはまらない、従って不慮の事故死(溺死)と断定、という具合になってしまうのであろう。これがそもそも間違いの始まりなのだ。なぜ断定できるのか。目撃者がいない以上すべて“変死”と扱うべきなのだ。日本の変死事件の多くが「事故死」や「自殺」としてかたづけられてしまうのは、先に述べた“象徴”という概念が日本の警察に欠落しているからである(熊取の警察はこの欠落によって犯罪的捜査ミスを犯してしまった)。象徴殺人とは、「宗教的、信条的結社、団体が、己の教義に基づいて行う儀式的殺人」のことである。噛み砕いて言えば、「個々の結社、団体の崇拝する神(悪魔)への生け贄、あるいは、個々の結社、団体の信条、願望を誇示するための殺人」である。

 

今回の事件で特徴的なのは言うまでもなく、7、特に“7山”を象徴していることである。しかもこの象徴は、命を絶たれた人達のみならず、一般の日本人にとっても決して祝福的なものではない。いや、むしろ呪われたものと言える。なぜならただ7に関連したというだけの不特定多数の“日本人の死”のつながり(バス路線)をもって、この象徴は成立しているからである。この化け物は“7山”に“死”を“象徴”させて、“すべての日本人に呪いをかけた”と言える。裏返せば、この化け物の正体は、我々に言わせれば、“7山を根絶の対象とする教義を持つ血塗られた集団”ということになる。また、ターゲットの“死”をもって儀式を遂行しており、殺害形態にはこだわっていない。これは、あからさまに殺害して世間を騒がせては、後の儀式の遂行に支障をきたすからであり、これがターゲットを「事故死」や「自殺」に偽装する理由であろう。そうゆう意味で一連の儀式は完遂しておらず、これから以後も確実に起り得ると言わざるを得ないのである。福岡の2少女のあからさまな殺害は、この「悪魔」にとってはやむをえない処置であったと思われる。いくら悪魔といえど、7才の少女2人を失結した地点から17キロも離れた場所で「自殺」や「事故死」に偽装することなど不可能であろう。この事件が特異なのは、なぜわざわざ17キロも離れた山頂の道路脇に2人の遺体を放置したのか、放置場所が“熊取7山”や“海南7山”などであれば納得いくであろうが、謎はますます深まるばかりである。署長、ここはひとつあなたに謎解きをお願いしたい。キーは「8丁峠頂上」にある。この化け物はこの付近を一体、何に見立てたのか。

 

我々はこの「悪魔の暴虐」を阻止すべく、1992年7月4月付けで主要マスコミ各社に、1992年7月4日以降、7に関連した幼児、幼女、少年、少女達の変死、自殺が雪だるま式に激増するであろう、という警告とともに真実の公表を求めた。にもかかわらず我々の主張は闇に葬り去られた。あの時点で真実を追及するマスコミかいたならば、以後の“儀式”は防げたかもしれないのである。[32行削除、悪魔に対する対抗策が延々と述べられている]…。

 

その地域の町名などの象徴物に何か共通するものはないか。7の付く町名、路線バス停留所は言うまでもなく、“7に連関した象徴物(=後述する“8”など)をその周辺で発見できたならほぼ間違いなく、“7山”なら100%確実に我々が述べてきたのと同一の「悪魔」が関与していたと断定できよう。また、極論すれば、“7を象徴させる地域”で起きた「変死事件」(自殺、事故死を含む)はすべて我々が主張するところの「悪魔」が関与していたと疑ってかかるべきであろう。象徴誇示のための貢ぎ物は、何も“未成年者に限ってはいないこと”、さらに福岡の事件のように、“7以外の象徴物で7を代用している場合がある”ので、未成年者や7に固執することのない柔軟性も必要である。今だ際立った“痕跡”の見られない“7”バス停留所、これが当面の「魔手」の出現ポイントであり、対峙すべき“有効な場所”である。

 

署長、我々はこの場を借りて再度警告したい。“7山”の住民は危ない、と。これより以後も7山の住民には死の仮面で覆われたさまざまな罠が仕掛けられる可能性が非常に高いと言わざるを得ない。少なくともあなたには7山の住民を守る義務があるはすであろう。ことが起こってからでは既に手遅れなのである。そのためには県民レベルでの連携が必要である。署長殿、ここまで読み進まれたあなたにとりあえずは敬意を表したい。ここでひとつの疑問を持たれたと思う。それは恐らく、“7”に“死”を“象徴”すべく活動している“悪魔のような邪悪なる生物の正体”とは何か、という疑問であろう。ここで直接的に表現して、固定した先入観を植えつけるのは得策ではないと思われるので次のような表現で疑問に答えたい。

 

【2-4】

“7山に日本人の死の象徴”とはつまり、「まことの神を気取るバケモノが、神国日本(天皇とすべての日本人)を“サタン”に仕立てあげるための“パフォーマンス”」ということである。“7山の根絶を教義として持つこのシナリオライター”こそ、“悪魔のような化け物の正体”にほかならないのである。繰り返し言うが、この一連の“血塗られたパフォーマンス”はすべての日本の警察に対する“挑戦状”でもある。恐らく日本警察史上、最大、最強、最悪、そして最後の敵となろう。市民の町に立つ良織ある警察がこの戦いに破れるなら、すなわちそれは日本という国の“滅亡”を意味することになる。“象徴”を中心としたあらゆる犯罪の発信基地=“サタンの巣窟”となろう。警察は今何を為すべきか。さしあたって為すべきことは、一連の「血塗られた儀式のシナリオライター」のところへ直接切り込みに行くことではない。国境という壁が立ちふさがり事実上不可能である。この「悪魔」が解き放つ「魔の手」からいかに市民を守るかを考えることであろう。そのためには、まず市民に真相を知らせ、我々が先ほど述べた簡易レーダーの作成を急ぎ、「魔の手」が及びそうな地域のめばしをつけることである。良識ある警察はそこで「魔の手=殺し屋」と一騎打ちということになるだろうが、「殺し屋」の検挙よりあくまで市民の命の方に重点を置かなければならない。「魔の手」を封じることそれ自体が良識ある警察の勝利につながるからである。そのための市民との連携はもちろん欠かせない。

 

我々の文書が魔封じの一助になることを祈って…1993年9月

最後に、今年5月に起きた山梨県忍野村の「7人中毒死事件」は、福岡の2少女殺しの儀式の延長であったということを申し添えておきたい。キーは「7」、「8海」、「藍」、『○○○○○○○』である。 我々はこれらの義式を7山象徴殺人の一連鎖としての“○○○○○○○象徴殺人”と定義している。一連の血塗られた化け物が、いかに日本をサタンに仕立てあげ、根絶の対象としたいか、恐るべき願望が見えてくる。

 

9、24、宮城“7ヶ宿町”収入役に一体何が起きたか。死体発見現場は“7ヶ宿湖”(路線バス7ヶ宿局)ではないか。警察は急がなくてはならない。“魔の手”はすでに地方公務員にまで及びつつある。躊躇している余裕などないのだ。ことは一分一秒を争うものである。一日遅れるごとに犠牲者の数は確実に一人増えることになろう。 9、26、愛媛伊予都“7折”(路線バス)の4人は本当に無理心中なのか。キーは、えひめ=“愛”媛幼椎園児、死、「8倉」である。ことは、驚愕すべき血塗られた連続“儀式殺人”の観を呈してきた。サタン封じ込めのための、警察の広域捜査の一日も早い確立を望むものである。

 

以上、「悪魔の儀式殺人」に対する驚愕すべき告発書である。いわゆる悪魔の“生贄”と呼ばれるものを象徴体系として完成させ、その正体の捕捉に最も肉薄した驚天動地の内容であると言えるものだ。この書の存在こそ、この世が悪魔の独壇場ではないことの証明であろう。この書のいう“7山の根絶”を教義として持つ血塗られた集団とは一体何者のことなのか。『ヨハネの黙示録』に次の一節がある。

 

ここに知恵の心があります。7つの頭とは、この女がすわっている“7つの山”で、7人の王たちのことです。(17章9節)

ここでいう7つの頭、7つの山、7人の王とは、終りの日、神の裁きにあって滅ぼされる大バビロンの象徴である。この滅びの象徴である“7山=大バビロン”を“熊取”や“海南”に象徴させつつ関連する路線バス等で日本全土に連鎖させる。しかも“日本人の死”の鎖によって。果たしてこのような悪魔的な発想が、地球食物連鎖体系の一種族である人間に思い浮かぶものであろうか。これは悪魔的発想ではなく、まさしく悪魔そのものに由来するものであると断言できるのではないか。サタンは間違いなく実在するのだ。日本人の死によって裏千年王国の完成を望むもの、これが彼ら(ボエド)のいう“誠の神を気取る化け物”の正体であろう。

 

為したことは必ず返るという、いわゆる因果応報、カルマの法則は何も仏教やオウム真理教の特権ではなく、宇宙に住まう全生物種を貫く普遍の法則である。これは神の天罰が下るという意味においてではない。生物学的に例えて言えば、食物連鎖体系が健全である限り、その体系に適合して住まう一個種が滅びることはない。だが、ここに悪しき種族がいたとして、ある一個種を根絶やしにしたとする。その種が悪しき種族の生存に必要な酸素、エネルギーの供給の大本である植物休系であったらどうなるか。もっと単純に言って、生理的にも暴飲すれば肝臓を痛めるし、暴食すれば胃を壊す。不規則な生活をすれば隈や吹き出物がでるかも知れない。いじめにシンナー遊び、家庭内暴力、売春、果てはブルセラショップと落ちるところまで堕ちていく子供達の精神性の退廃は何を意味するか。これは人間の霊性をなおざりにした物質偏重、経済本位の社会に対するカルマの現象化に他ならない。子供達の非を論ずる前にまずは己の醜態を自覚すべきである。

 

【3-1】

バベルの塔の崩壊伝説はカルマの実在を如実に記している。堕落したものはいずれ滅びる。ならば悪魔もカルマによって滅びるのではないか。もしそうであるならば、我々は永遠に安眠できるであろう。カルマすらも操作する。ここに悪魔が悪魔である理由がある。言い換えれば己の悪業を他者に完全転嫁する奥義を心得ているもの、このものこそ真の悪魔と言えるのである。7山で本来減びるはずの悪魔の代わりに死ななければならない日本人。熊取と海南の惨劇は、悪魔のカルマ転嫁の結果として体現化したものにほかならず、悪魔の生贄の必然性とカバラ的黒魔術体系の存在理由はすべてここに集約されている。ちなみにいわゆる西洋医学と呼ばれるものの中の臓器、生体物質移植や遺伝子操作などはカバラ黒魔術に由来するカルマ転嫁の一種であるが、生半可な知識の医学者どもの手になど到底負える代物ではないということを警告しておきたい。カバラの奥義を極めた悪魔のみが行使し得るものだからだ。カルマの転嫁の失敗ほど恐ろしいものはない。悪魔の認証なしで、この業務や研究に従事するもの達にはすべて、7山以上の大いなる災いが降りかかるであろうことをここに重ねて警告しておく。7山に日本人を完全移植できるのは真の悪魔だけなのである。

 

悪魔のカルマ転嫁を完全なものとするために遂行された“儀式”は個としては完結されなければならない。またそれに関連していかなる疑念も生じさせてはならない。“儀式”に対する疑念の拡大はその遂行者に致命的災いをもたらすからである。災いからの回避、これは悪魔にとっても不可欠なことなのだ。下等な魔物であれは祈祷師レベルでも封印できよう。だが、少なくとも7山に関しては聖者と呼ばれる者でさえその封印の術のみならず、概略すら理解できていないようである。何故ならこの悪魔こそ正真正銘の大サタンであり、6000年に減ってカルマ転嫁をほぼ完癖に近い形で遂行してきたからである。だが今、この悪魔の黒幕の正体は6000年の追跡の果てにおぼろげながらも浮かび上がってきた。完全カルマ転嫁のための隠蔽工作、それは謀略として行なわれた。そのターゲットに選ばれたのが久間三千年である。

 

明和63年12月4日、福岡県飯塚市明星団地に住んでいたひとりの少女が行方不明になった。潤野小学校1年、松野愛子である。日曜の午前7時半頃、町内の廃品回収を手伝った後、団地内の公園で友達と遊び、さらに同10時頃、一人の男の自宅で弟と遊んでいるのを近所の人に目撃されるが、これを最後にこの女児は失踪した。この男こそ、久間三千年であった。

 

久間三千年がこの女児失踪に関与したのか。証拠はない。だが、周囲の印象は、久間が極めて怪しいという雰囲気に包まれた。今度この男の周辺で児童が失踪すれば、重要参考人にされるのは明らかであった。ましてや殺害されるようなことがあったなら、警察は間違いなく久間を“想定した犯人”に仕立て上げるであろう。もちろんこの時点では久間も警察も3年2か月後にお互いが反目し合うことなど予想できなかったに違い。両者を土俵に載せてほくそ笑むものがいた。悪魔の謀略の第一段階は成功したのである。

 

平成4年2月21日夕、福岡県甘木市野鳥の国道322号道路わきの林で、20日朝から行方不明になっていた潤野小学校1年、中川藍と同、梅野裕莉の二人の女児が死体となって発見された。二人の顔には殴打の跡があり血が流れていたという。二人は20日朝、別の友人と三人で登校したが、登校途中、この友人と別れ、飯塚市内の繁華街で目撃されたとの情報を最後に消息を断っていた。

 

この時点で、つまり状況証拠すらほとんどない時点で、“犯人久間三千年”は9割方確定された。初めに“犯人久間三千年”ありきであった。相撲でいえばもろさしで土俵際1メートルの所から無理やり取り組まされたのである。捜査の初期段階から、久間を犯人と匂わす、警察地元マスコミ一体となっての波状攻撃が繰り返し行なわれた。時に警察は、捜査の初めから久間の顔写真を持ち歩いて近所の住民に聞いて回るという人権を蹂躙した不当な捜査を平気で行なったのである。

 

2女児の遺体発見で、松野愛子の敵が討てる、一部の警察関係者は色めきたったのであろう。だが、これこそ悪魔が想定していたシナリオであった。冷静に考えれば、久間の一連の事件への関与は素人目にも大きな矛盾があることは明白であった。まず久間三千年が知性ある性倒錯者として、かつて嫌疑をかけられたのと同じ自宅の近所に住む潤野小の児童を、何故わざわざ欲望充足の対象に選んだのか、しかも2人も、という素朴な疑問が生じてくる。我々が「変態久間」の立場なら“自宅周辺での対象物色”という危険な行為は間違っても犯さなかったであろう。以前に嫌疑がかかっていたのだから尚更である。最も不可解なのが、2女児の遺体や遺品をほぼ100%発見されるであろう道路わきにわざわざ放置したことであった。“殺人事件”になることを確信して。久間が松野愛子失踪に関与していたと仮定するならば、少なくとも欲望を充足した後の処理技術に関しては長けていたわけである。それが2女児殺害のような大それた事後の処理は、確実に己の首を絞めるであろう形で省略した。遺体が発見されれば警察は確実に動く。この“省略”こそ警察をフル嫁働させ、ターゲット久間が総攻撃されるように仕組まれた「起爆剤」であったのである。これより以後の 「久間攻略作戦」は以下のように行なわれた。

 

【3-2】

3月に警察が得たといわれる「遺品遺棄現場での紺色ワンボックス車を見た」との目撃情報により、「同種の車を所持していた」久間三千年に捜査の対象はほぼ100%絞られ、この男と女児とを結びつける証拠の発見に全力が注がれた。警察は、最悪、決め手となる証拠品が発見されなかった場合、伝家の宝刀である内部工作による証拠のこじつけ、デッチ上けも辞さない覚悟でいた。3月下旬、久間に任意で提出させた毛髪と「現場に残されていたといわれる体液」とが警察庁で行なわれたDNA鑑定の結果「ほぼ一致」し、この時点で久間がほぼ犯人と断定された。だが検察に証拠能力を問われ、第三者の大学研究室で再鑑定したところ、一致の確立は非常に低下したものであった。ここに警察の苦悩がある。捜査は中断したかにみえたが、平成5年12月になって、前年9月に久間が手放した例のワンボックス車内を再度鑑定、翌年2月、1年5か月という歳月を怪て、女児の衣服に「付着していたという4種類の繊維」と前述の「車のシートの繊維とが一致」、さらに「シートの裏に付着していたといわれる「ごく微細な血痕」と女児の一人の「血液型も一致」した。8月、検察との協議の結果、久間三千年死体遺棄容疑が固まり、9月29日、同容疑で、ついに逮捕された。最初の事件発生から実に5年9か月後、悪魔のシナリオは完遂されたのである。

 

久間と警察の5年9か月に渡る闘争は警察による久間への一方的な「精神的拷問」という形で行なわれた。本来密室で行なわれるはずの自白強要が、衆人環視、認証の下行なわれたのである。特に2女児殺害以後は、久間の実名と顔写真を所持しての自宅近辺での聞き込み、張り込みが連日続けられた。平成5年9月には、警察の嫌がらせに対して堪忍袋の緒が切れた久間が、張り込みの捜査員に刈りバサミで切りつけるという一幕もあった。状況証拠らしい状況証拠と言えば「久間も持ってた紺色ワンボックス車が遺棄現場で目撃された」という情報のみであった。だがこれは久間に嫌疑が向けられるように作られた情報リークの可能性があったし、それが事実であるとしても、久間のものと同一の車種を使い、たまたま誰かに目撃されたか、あるいはわざと目撃された真犯人のものであろうことは容易に推測できるものであった。

 

この「目撃」以外はすべてこじつけられた証拠である。DNA鑑定などほとんど信用性がないことが証明されたにもかかわらず、警察は自称「ほぼ一致」にあくまでこだわった。そもそも「現場で発見された体液」はDNA鑑定できるほどの量があったのか。車内の微物の鑑定に1年5か月もの長大な期間を要したのは伝家の宝刀の製作に四苦八苦していたからに他ならない。A、B、AB、O、2女児の型がそれぞれ異なるとして、いずれかが一致する確率は単純計算で二分の一である。こんなのが証拠と言えるのか。警察が久間逮補のよりどころとしている証拠に久間の車の「シートの4種顕の繊維と2女児の衣服に大量に付着していた繊維とが一致した」というのがあるが、これは殆ど詭弁であろう。女児の衣服のものであると100%断定できる繊維が久間の車の中から出てきたわけではないからだ。証拠となるには4種類の繊維が久間固有のものであることが証明されなければならない。4種類の繊維が量販されている、あるいは他者が真似て作れる、使用できる可能性がある以上、確固たる証拠にはなり得ないのである。にもかかわらず警察は、久間三千年を“怪しい”“やったに違いない”という偏見と思い込み、ほとんどこじつけられた状況証拠だけで犯人に仕立て上げたのである。

 

久間三千年の起訴後、実に“奇妙”な事が起きた。何を思ったのか、警察は今頃になって松野愛子の痕跡を再び捜しに出かけ、それを見事に発見したというのである。地元マスコミはこの出来事を、6年間不明の愛子ちゃんの衣服が25分で発見された「快挙」としてこぞって報道した。この出来事は警察の「本質」というべきものを実に見事に物語っている。松野愛子の衣服(ジャンパーとトレーナー)は明星寺南谷山道斜面で再捜索に加わっていた地元消防団員の手により不法投棄のゴミに混じって発見された。これに対する警察のコメントが「失踪事件の風化を防止するため、当時の捜索でやや不十分だった場所をあらためて探しただけ」という“素晴らしい”ものなのだ。6年掛けて探し続けてきたものを今回はわすか25分で見つけ出したのである。しかも「とても6年前に捨てられたとは思えないほど傷みは少なかった」という関係者のごたいそうなおまけまで付けて。警察はいつから「超能力者」になったのか。よくもこのような見え透いた大うそを憶面もなく平然とつけるものである。まさに遺族と国民を愚弄したと言えるのではないか。この“奇妙な出来事”は一体何を物語るのか。可能性として次の事が推測されよう。1、伝家の宝刀を抜いた。つまり全く同じ衣服を新たに用意し、自ら投棄し発見した。2、警察が温存していた証拠(衣服)を今が出し頃であると判断し、偽装する形で発見させた。3、松野愛子殺しの真犯人、第三者が久間を嵌める目的で今になって投棄し、リークして発見させた。4、2女児殺害で捜査の手が及ぶと判断した久間が、最近になって投棄しそれをたまたま警察が発見した。5、6年間野ざらしの衣服がほとんど無傷の状態で奇跡的に警察に発見された。

 

現場で発見された着衣は、ゴミ不法投棄場所として調査した主婦の証言から平成4年秋頃にはなかったことが確認され、投棄の時期はそれ以降であることが判明している。したがってほとんど「傷みのない着衣」

 

【3-3】

という事実と合わせて考慮すると、5の可能性は除外できよう。次に4についてだが、平成4年秋以降といえば2女児殺害に関して久間に多大な嫌疑がかかっていた時期である。連日張り込みも行なわれており、このような状況での投棄はます不可能である。見つけられた時のリスクを考えればむしろ自宅で燃やすなりして処分するはずである。それにもともと久間はやってないのだから捨てようがないのだ。残るは1、2、3であり、この内のどれかが真相である。この時朝に、特定の場所に狙いを定めて、しかも超短時間で確実に望みの“物”を発見した。この意味することは4の“たまたま”とか5の“奇跡的に”ということではなく、“そこにある”ことを警察は100%確信していたのである。この警察の“異能”に関して永留慶造飯塚署長は「若干の捜査情報に基づいた可能性もあるが、その情報は明らかにできない」と述べたそうだが、これを素直に解釈すると、3、すなわち直接の犯人からでないにせよ、何ものからかの情報リークがあったとも受けとれる。これが事実ならばむしろ久間の事件への関与は否定できよう。もしこの事実がなけれは、1か2ということになる。もっとも警察は間違ってもデッチ上げたとは言わないだろう。いすれを取るにせよ、松野愛子殺しも久間に結びつけ、窮地に追い込もうという何者かの意図は見え見えなのである。

 

ここで松野愛子殺しの意義を若干述べておく。サタンの本命はあくまで『中川藍』にあった。松野愛子の失踪は、1、警察をフル嫁動させない程度に近所の久間に嫌疑がかかるようにする、2、来るべき『中川藍』の儀式のための予行演習、という二つの意味があったと言える。儀式の完遂のための久間というスケープ・ゴートの必要性だ。松野愛子が演習であったことの証明は、その名前「愛」、衣服のあった「8木山」にある。この意味についてはボエドの『7バス報告書』の署長への謎かけと合わせて考えて頂きたい。

 

この久間事件は、“謀略”により、いかにして無実の日本国民が殺人犯に死立て上げられるのかを端的に表しているケースである。その意味で、久間事件はすべての日本人に関わる問題であると言えよう。この事件の真相を追及しようとする姿勢を見せれは見せるほど、それを妨害しようとする勢力も勢いを増してくるであろう。『中川藍』の儀式の完遂は、サタンにとってどうしても譲れない橋頭堡的役割を合わせ持っているからである。従ってこれより以後も、久間に止めを刺す様々な小細工が仕掛けられる可能性が非常に高い。日本国民は自身の問題としてこの事件の成行きを監視していく必要がある。

 

この久間三千年と同一の計略によって嵌められたのが地下鉄、松本サリン事件の「首謀犯」麻原彰晃である。取り巻きであった「幹部」「信者」「元信者」等の「自供」により、現在麻原は孤立無援の完全四面楚歌、99、99999%の悪魔の包囲のただ中にある。事実上死んでいるといっても過言ではなかろう。一般大衆ならともかくとして、ある程度の洞察力、あるいは霊的ステージに達しているものなら、何やらとてつもない謀が麻原の周辺において蜘蛛の巣のごとく張り巡らされ、今まさにからめとられたことを潜在意識の内に感じ取っていることであろう。一方で、100%麻原が無罪であることを認識した上で、絶対にこのような状態になることを遥か以前から想定し、事実そうなったことに歓声を上げているサタンに付き従う一群も確実に存在している。古今東西、聖者と呼ばれるものたちは、時の権力に悪魔的アプローチをもって融合しようとしない結果、徹底的に叩かれ、最後は粉砕される宿命をその内面に必然的に宿していると言える。

 

何が起こったのか。ただ街は、異様な雰囲気にのみこまれた。目をつり上げた数人の女たちが、城壁から飛びおりて次々と自殺する。子供を道づれにして首をくくるものがある。素裸になって街をさまよい、誰かれの見境いもなくとりすがって、なきわめき、燃え盛る火へ身を投じてのたうつ。女たちが狂いはじめた。男たちは家族や兄弟たちとわななきながら、なすすべもない。大地を打って嘆き悲しむ。悄然とした人々の群れが、次第に街にひろがる。最初この騒乱は、ベツレヘムとその周辺に渦巻いて起こった。砂漠の突風のように、一瞬に吹き荒れた。それが火のようにひろがって行く。人々は家の戸をかたく閉ざした。蒼ざめて、息をつめて、このわけのわからない突風の吹きすさぶのに耐えた。「子供は皆殺しになる」」「いや、二歳以下の赤ん坊だ。それも男の子だ」「さからったものは殺されるぞ」噂が飛ぶ。凶刃の吹き荒れる街角で、ぼろぼろの衣服を荒縄で身にまとった異言者が、野鳥のように嗄れた声をはりあげる。「ラマで声がする激しく嘆くものの声

だ。子供たちは失われた もはや慰めるものはない」

 

子供たちは胸や腹を槍や剣で刺し抜かれた。内臓が、母親の胸の間からこばれ落ちる。ヘロデ王の命令は迅速に実行にうつされた。子供は剣や槍で刺し貫く値打ちもない。大方の兵士たちは、女たちの胸からもぎとった赤ん坊を空に放り、撲殺するか、岩に投げつけて殺す。助けてくれと哀願する女たちの衣服をひきやぶって犯し、逃げまどうのを、兵士たちは面白がって追いまわす。まるで戦いに敗れた街であった。侵入した兵土たちが暴徒と化して人々を殺りくする。とどめようもない。(歴史読本ワールド『世界の三大教祖』『聖書物語イエス・キリストの生涯』 )

 

かつて教世の法を携えたイエスの降臨を察知したヘロデ王は、イエスとおぼしき男児を一人残らず虐殺し

 

【3-4】

た。何故ヘロデはかくのことく恐れたか。それはヘロデの王権がサタンに由来するものであったからだ。94年3月に小沢一郎は「オウム真理教を今年中に叩き潰す」宣言したといわれる。その3か月後、松本サリン事件が起こり、1年後地下鉄サリン事件が起きた。麻原オウムはまさしくサリンによって壊滅状態に追い込まれた。日本のヘロデ王小沢の「大予言」はほぼ的中したわけである。これは何を意味していたのか。少なくとも麻原がこの時点でオウムを自主解散するか、10億くらい懐に入れて小沢に迎合していれば、地下鉄サリン、いや松本サリン事件すらも発生しなかった、ということではないのか。地下鉄サリン事件を筆頭として、オウムが関与したとされる一連の事件は、久間事件の恐らく100倍、いや1000倍は複雑なものであろう。だがこれだけは言える。いずれの事件も同一の意思の下、同一の謀略の手法を駆使して完遂されたということである。

 

サタンの選定したターゲットをサタン自身の手を汚さず、第三の勢力を媒介して陥れる、あるいは叩き潰す。この場合、第三の勢力は絶対権力、すなわち国家、警察権力である。この意味で国家、警察権力すら利用された被害者とも言えるだろう。本来国家に由来する絶対権力は、その庇護の下にある国民のために行使されるべきものである。そのために国民の税金はある。久間事件など、警察それ自体が謀略のための手駒として利用されていたという点を考慮に入れるなら、ある面において同情すべき余地もある。だがオウムの事合は根本から異なる。国家公安権力、すなわちヘロデの親衛隊が、率先して謀略を仕掛けていたからである。国家の名を借りたこの秘密警察はオウムの教えを信望、あるいは支持していただけの日本国民を、事件に関与したかも知れないという憶測だけで徹底的に迫害、虐持した。別件逮捕不当逮捕ならまだはるかによい。果たしてオウムに“逮捕”はあったのか。否、事実はすべて強制連行であろう。オウムVS警察ではない。サタンにとりつかれたヘロデの私設軍隊がオウムという日本国民に一方的に攻撃を加えていたのであ

る。

 

オウムに関する一連の事件を単なる刑事事件、テロリスト集団に対する公安の取り締まりなどといった大枠で括ることなど到底出来ない。ヘロデにとって重要なのはオウムが犯罪を犯したか否かではないのだ。要は麻原に出来るだけ大きな犯罪の嫌疑をかけてオウムが活動停止、ないし壊滅に近い状態に追い込まれさえすればよかったのである。オウム事件を理解しようとするなら少なくともいま述べたような根っこの部分の把握が必要であり、この理解なくしては事件の全貌を掴むことなど永久に不可能であろう。たかだか信徒数1万余りの教団に、米軍やヘロデの親衛隊が毒ガス攻撃を仕掛けるとは荒唐無稽であるというのが大方の感想であろうが、イエスとヘロデという前述の構図を把握するなら、毒ガスで潰されるという彼らの訴えはむしろ切実なものなのである。事実、ブランチ・タビディアンや太陽寺院などのオウムよりはるかに小規模なカルト教団は謎の崩壊を遂げた。どれも「集団自殺」ということになっているが、事実は巧妙に仕組まれた謀略による虐殺である。この一連の教団、特にカルトバッシングは、世紀末、小沢の背後に潜む真のヘロデ王の世界統一政府、裏千年王国の完成に向けて不都合な障害物を探知するという意味があり、真の千年王国建国を100%阻止しようとする世界的規模での“メシア狩り”のための布石という役割を合わせ持っている。この過程で迎合する勢力は己の陣営に引き入れ、しないものは徹底的に叩き潰す。暴力団新法の施行もメシア的考えにより近かった真の仁侠を壊滅させ、サタンの陣営に包括すべくヤクザのマフィア化を目論んだものに他ならない。人民寺院、ブランチ・デビディアンや太場寺院の凄惨な末路はサタンの手によるメシア狩りの結果であり、同じく迎合しないオウムがサタンに徹底的に叩かれているのは極めて自然な成り行きであると言えるのだ。

 

今オウムに起きている事は、いずれすべての日本人に降りかかることである。サタンに迎合してもしなくても“地獄”という関門は不可避である。すべての日本人は皇室の聖地伊勢のヘロデ紋の真の意味することをいま一度認識すべきである。そして理解すべきである、いま起きていることは決して聖書の中の過ぎ去った出来事ではない、第7番目の地日本にステージを移して現在進行形で進みつつあるということを。

 

大いなる試練の後 7つの山は粉々に破壊されるであろう

恐るべき最後の審判が人々に下されよう

(『聖マラキ予言書』最終章)

 

〈麻原影晃殱滅のシナリオ〉

1946年以前 ヘロデ、ノストラダムスの予言詩を解読。45年以後 米軍を日本国首都の中枢に配置。1970年代からメシア狩りを強行。最終的にターゲットを日本に絞る。86年4月以降 神仙の会時代に既にヘロデのエージェントが数名潜入、会員に成りきる。麻原の人格、オウムの教義を徹底分析、結果、ヘロデの王権にとって重大な脅威であることが判明。オウ

 

【4-1】

ムの活動妨害指令が下る。そのための青写真を作成。

89年3月              オウムの宗教法人認証をヘロデの指示で結成させた「被害者の会」、北川などを利用して徹底妨害、オウムの救済活動を遅らせる。

8月            宗教法人認証によって麻原抹殺指令が下る。

9月    ヘロデの人脈がある『サンデー毎日』を使ってオウム中傷大キャンペーンを展開。

11月   ヘロデの親衛隊、外部エージェントが坂本弁護士一家を拉致、殺害。反権力志向の強かった弁護士集団をヘロデの陣営に引き入れる。オウムの外堀を埋める。

90年8月   ヘロデ、細川知事を利用して国土法違反をでっち上げる。犯罪集団オウムのイメージを固定。

90年10月  ヘロデ軍の事実上の宣戦布告。国家権力を利用してオウムに対する一斉弾圧を開始。

91年以降   ヘロデ、オウムに対するゲリラ戦を開始、上九一色村のオウム施設の内偵。エージェントに便宜させいかがわしい薬品類を大量購入させる。この時点でヘロデの親衛隊、エージェントがオウム教団内部に数十名潜行。米軍、ヘロデの覆面部隊が上九のオウム施設、麻原個人に超低濃度の毒ガスをゲリラ的に散布。麻原の目を毒ガスに向けさせ、サリン等毒ガスの脅威に言及するよう仕向ける。上九の薬品類、実験プラントをエージェントに内偵させる。最終的にサリンが合成できることを確認した上で、それを謀略の手段として使用することを決定。

94年3月   オウムを潰すと小沢が「宣言」

  6~7月  ヘロデの覆面部隊がオウム関連の施設のある松本と上九でサリン実験。地下鉄の予行演習を実行。同時にオウムに嫌疑を向けさせる。

  7月以降   そのための「怪文書」も作成。

95年1月   ヘロデ、元旦の読売新聞紙上でオウムに事実上の最後通牒

    2月   エージェントの「信者」、ヘロデの下手人が刈谷氏を拉致、殺害。オウムの犯行に見せかけ、宣戦布告の口実を作る。

   3月   同じくエージェントの「信者」が自作自演の火炎瓶攻撃。後で暴露しオウムを窮地に追い込む。

     20 ヘロデの精鋭部隊が地下鉄にサリン、ソマン、タブン等を散布。

     22 ヘロデ宣戦布告、国家警察力を使って麻原、オウムを総攻撃。

 

 

 以上、麻原殱滅までのあらましである。麻原が地下鉄にサリンを撤いた。優秀な日本の警察がすぐさまそれを察知し逮捕した。これで日本国民は安全である。バンザーイ。少なくともそんな単純な構図でないことだけは、少しは理解していただけたであろう。

 

絶対なる未来を書物として記した場合、善なるものも悪なるものもそれを利用しようとする。その意味でノストラダムスは両刃の剣である。かつてのヘロデは「東方の三博士」の託宜を利用して、イエスを徹底包囲した。世紀末、「偉大なメシアの法が日本において保持されている」ことは、ノストラダムスを初め、古今の聖者、賢者方の共通したビジョンであり、現代のヘロデも当然それを認識している。サタンも既に未来を知っているのである。冷戦の崩壊にもかかわらず、首都近辺において、異常なまでに米軍の包囲網が存在するのは、ヘロデにとって最も不都合なものが出現することを確信しているからであり、いかにサタンが日本を恐れているかということの証明と言えるのである。隙あらばいつでも取って喰らおうという腹積もりなのだ。

 

中川藍殺しを筆頭とした熊取や海南での7山の現象化は、ある意時でサタンの最後のあがきと言えるものである。特に熊取7山の現象化は『サムエル記Ⅱ21章』象徴、すなわちサタンに属する種族が罪過、身代わりの7人を処刑して、己の保身と繁栄を祈願したものだが、我々の暴露によっていずれ恐るべき災いとなって降りかかることになるであろう。「呪いのわら人形」であるなら、まだ遥かに幸運である。現在まで、傍若無人に行なってきたカルマの転嫁という想像を絶する大悪業のつけが、サタンの中枢を直撃することになるであろう。サタンに属するものたちはすべて、空前絶後の地獄の業火に投げ入れられよう。本物の7山は文字どうり粉砕されるのである。

 

麻原を如何にして殱滅するかは、サタンにとって解決すべき至上の命題のひとつであった。この解決なしには、サタンの覇権は永遠に有り得ない。サタンの最も恐れていることは、解決の先送りによる自身の7山化である。これを打破すべく、サタンは日本そのものの“7山化”という恐るべき策を講じてきた。己の延命のために、1億2千万国民の心臓すべてを自身の体内に移植するつもりなのである。移植を妨害する麻原

 

【4-2】

の存在がサタン自身の死活に関わる以上、その存在は必然的に抹殺の方向に向かう。延命のためには手段を選ばない、これこそがサタンの手により、地下鉄にサリンが撒かれなければならなかった唯一の理由なのだ。 サタンの麻原殱滅の基本戦略は次のごとくである。

 

1、正規の現場公安を教団内部に潜行させ、徹底した人物分析、情報収集を行なわせる。

2、公安の中の公安、すなわちヘロデの親衛隊、覆面部隊を使って謀略を仕掛ける。

3、信徒に仕立てたエージェントに犯罪を行なわせ指名手配、あるいは逮捕、「自供」という形でオウムを巻き込む。公安子飼いの告発部際である元「信者」「幹部」、家族などに偽証させオウムを告発する。

4、微罪で徐々に外堀を埋めていき、仕掛けた謀略を順次発動させ最後に本丸を攻略する。

 

 

これがサタンの3段階+1の基本戦略である。1だけが、見かけ上、合法的な公然部隊であり、2は非合法非公然、3は非合法公然部隊である。1と3、2と3という関係である程度連結しているが、1と2は相互依存性はなく、ほぼ独立している。正規の公安は見かけ上、合法であるが、実際は、詐称に始まり、盗聴、のぞき、窃盗、手紙開封、住居不法侵入と殺人以外なら何でもやる。刑事警察とは次元も人種も違うのだ。2は公安内部でも把握しきれない出処不明の秘密警察組織、3は莫大な報酬と引き換えに自身が使い捨て、鉄砲弾になる代理人、契約員であり、村井氏刺殺犯の正体である。もっともこの相人は即席であり、信徒ではなかったが。ヤクザの影がちらつくエージェント除という設定は、ヘロデにとって一石二鳥の最高のスケーブ・ゴートを提供していたと言えよう。暴対法によらず、羽根組はヘロデの奸計によって潰されたのである。

 

一連のオウムの事件で、いともたやすく捕まり黙秘してれば絶対に判らないこと、オウムが不利になるように必要のないことまでベラベラしゃべるオウム「信徒」「幹部」の存在を奇異に思われたであろう。教団内部に村井刺殺犯徐のようなエージェントが数十名潜入しており、謀略の詰めの段階で自ら捕まり、公安が捕獲したい真のオウム信徒や幹部に犯罪の嫌疑がかかるように「自供」しまくっているのである。イザベラ、サロメも当然実在している。ただし大半はマスコミ憶測の虚偽の報道だが。

 

このようなサタンの超完全監視網の中で、松本サリンで嫌疑がかかっていた麻原を筆頭とする真のオウムが、地下鉄でサリンを撒ける可能性は0%であると断言できよう。万一、麻原が実行部隊を指導していたのなら、100%確実に、直前で現行犯逮捕できていたはずである。それができなくて麻原が死刑になるなら、“やらせた”公安は麻原以上に断罪されるべきである。それがルールというものだ。

 

この悪魔の構図を理解できれば、村井氏刺殺の理由も自ずと判明する。果たして麻原が計画し、村井にやらせたから殺されたのか。そうではない、やってないからこそ殺されたのである。村井刺殺の理由は、1、スケーブ・ゴート、ミシング・リンクの必要性である。サリンに関して麻原と直結出来たのは村井だけであった。やっていない村井がもし存命し続けていたなら、逮捕されようがされまいが、松本サリン河野氏のようにあくまで否定し続けたであろう、自分はやってないと。実際やってないのだから。土谷や遠藤、中川がいくらでっち上げの「自供」をさせられても、最高責任者村井に否定されればそれまでである。最悪、中川や遠藤が無実の罪で処刑されても独断ということになり、村井というタガのおかげで麻原は軽傷で済む可能性が非常に高くなる。これは悪魔にとって容認し難いことであった。もし、村井がいなくなれば、情報操作、デッチ上げ、もしくはエージェントの「自供」により「村井の関与」をほのめかすことができる。それは即、麻原に直結することになる。事実、「村井の関与」で麻原は攻略された。生きている村井であれば、この欺瞞に対して弁のたつ反論を展開出来たであろうが、もはや“死人に口なし”である。村井刺殺の裏には、麻原攻略という思惑を秘めた悪魔の謀略が機能していたのである。2、悪魔の便宜により、いかがわしい薬品類を大量購入させられたお人好しの村井氏は、今頃になって騙されていた自分に気付いた。記憶を辿っていくと何やら思い当たる節があると。そう、エージュントらしき「信者」の存在である。これをきっかけに教団内部の不審者をすべて洗い出した。そして確定した不審者の名簿を作成しマスコミに公表しようとした。公表を恐れたヘロデが先手を打ったのである。

 

2はあくまで憶測の域を出ないものだが、これだけは言える。“村井の刺殺”は、松本サリン事件の前に既に決定されていたということである。正確にいうならミシングされるべきリンクの位置は決まっていたというべきか。もしこのリンクの位置に上祐がいれは上祐が消されていただろうし、中川がいれば中川が消されていたということである。麻原攻略にサリンを使う場合、科学部門の最高位のリンクが失われてしまうことは、悪魔の青写真には既に記載済みだったのである。つまり、1で村井の運命は確定していたが、2の要因で死期が早まったというわけだ。ここでこの書の冒頭の例の下りに戻って頂きたい。村井の死が確定していた以上、手抜かりなく“準備”されていたと見るべきであろう。どんでん返しは間違ってもなかったのである。

 

2がある程度まで真実を含んでいるなら、何者かの影に異常に怯えている上祐の姿も理解できる。上祐は、

 

【4-3】

為そうとした村井の“秘密”をある部分共有しているのだ。秘密を握らせたまま飼い殺すというのが、公安、ヘロデの戦術である。上祐の教団解体に向かう「柔軟路線」の真意もここにある。“秘密”をカードに強硬路線を進むと、120%今度は自分が消されることを認識しているのである。現在の上祐は、教団内部のエージェントと、外部のヘロデに事実上、生け捕りにされているのである。

 

村井の暗殺はヘロデにとって凄まじいまでの“効力”を発揮している。松本サリンも村井をスケープゴートにして、いずれ麻原に直結するであろう。科学(化学)のリンクの喪失によって、「新宿青酸ガス未遂」 、「江川、永岡会長事件」などもすべて麻原の「犯罪」として転嫁されるであろう。極論すれば、オウムが関与と報じられた科学に関する犯罪はすべて麻原の「犯罪」ということになる。土谷や遠藤がいくら否定しようが、村井のたがとは取り得ない。最高責任者の壁は越えられないのである。逆に、エージェントの「村井の関与」なる「たが」に押し潰されることになろう。村井暗殺は、まさにでっち上げ犯罪のオートメーション化、「殺人鬼麻原」というブランド商品の自動製造装置の嫁働のためだったと言える。

 

教団内部に潜入したエージェントに、ターゲットのオウム信者、特に幹部に出来る限り接近させ密接な仲間(運転手等で)を装わせる。ヘロデが謀略を仕掛けた後、エージェントは、規定の時期に微罪、あるいは出頭という形で自ら逮捕される。次に仕掛けた謀略のすべてを、ヘロデに指示されていたシナリオどうりにオウムの犯罪として転写する。ターゲットの幹部を主犯にして「自供」しまくるのである。自身はあくまで見張り役、あるいは無関与を主張しながら。このエージェントの基本戦術こそ、地下鉄サリン事件の真相の一端であり、すべてのオウム疑惑の根本なのだ。

 

このようにみれば「坂本一家拉致、殺害」「刈谷氏拉致、殺害」「リンチ殺人」などの闇に包まれていた一部分は照らし出すことが出来るであろう。刈谷氏拉致と言えば、まず思いつくのが松本剛である。この男の正休を完全に暴くだけで単行本一冊分の分量は優に越える。それほどこの人物には謎が多い。この男をエージェントとみるか、事件に巻き込まれたオウム信者とみるかでその後の展開が随分異なってくる。シナリオだけでニ十数通り考えられるのである。勿論我々はそのうちのひとつを事実として既に特定しているが、今はまだ公表すべき時ではないであろう。そこで想像を逞しくして“憶測”で述べさせていただくなら、そもそも「松本剛」は本物なのか、ということである。ここから始めなければ話にならない。報道が事実ならば指紋がないことになる。おまけに整形しており本人と確定するのはかなり無理がある。警察は掌紋で照合したというが、逃走先のホテルで採取された元の掌紋は痕跡としてそう残るものではない。だが、彼がエージェントであったなら掌絞があろうとなかろうと身元の照合は容易なのだ。松本剛は“囮アユ”ではなかったか。テレビ等で頻繁に公開されたこの男の顔の黒ずんだ写りの悪い「手配写真」を何度もご覧になった記憶があろう。まるでイエティか雪男のスクープ写真のようなものを。よくみると、顔のあたりに巧妙に加工処理を施されているのが素人目にも判る。冷静に考えれば、この合成写真こそ“犯人”のオウム「幹部」松本剛を強調させつつ、死なない程度の囮の役を演じるのに最上のものだったのではないか。松本剛を確定させたくない何者かの意志が働いていたようなのである。公安は松本剛を逮捕前の1、2週間に確定したというがこれは大欺瞞である。何故なら少なくとも、刈谷氏拉致以後から3月22月のオウム強制捜査までの間にいつでもすべての囮を回収できる態勢にあったからである。松本剛を、特別手配する必要など全くなかったのだ。

 

ともあれ、囮松本を回収しないでオウムの本拠を侵攻した公安の戦略は功を奏した。松本逃走がらみのオウム幹部、信者の逮捕者の数からみても明らかである。青山弁護士もこの過程で嵌められた。これらはもちろん松本を、『指紋なき囮』と想定してのシナリオのひとつであるが、この一分岐として林夫妻の“役割”というものの糸口を掴める可能性もでてくる。「刈谷氏拉致」というオウムにとって降って湧いた災難に、慌てた林夫妻が、囮松本をオウム信者であると誤解して逃亡を助け、整形、指紋削除等の隠蔽工作を施したというシナリオももちろん考えられる。が、むしろ囮松本をあくまで指紋なきオウム「幹部」として貫き通すためのつじつま合わせのスケープゴートとみる方が自然である。真のオウムが殺人集団であり、計画的に刈谷氏拉致、殺害を計画していたならば、組織ぐるみの犯行発覚を恐れて、指紋を残したスパイもどきの松本剛など当然「ポア」されていたであろう。それが奇妙な風貌で事件の終幕間際に出現した。「地下鉄にサリンを撒いた」「殺人鬼麻原」の部下、林が、なぜ松本ごときを「ポア」 出来なかったのか。真のオウムを刈谷氏拉致、殺害の犯人と想定するシナリオにはどれも矛盾が噴出してくるのである。いずれにせよ、松本剛の指紋によりオウム侵攻の突破口が開かれ、削除によって周辺の枠部は一網打尽にされた。証拠を残さない囮は、その使い手のシナリオどうりに如何様にもこじつけることができる。“死体なき”刈谷民も勿論。指紋に関しては、刺殺された村井氏も削除されていたというような報道がされている。もっとも、悪魔に解剖された村井氏の指紋がなくなるのは当然と言えば当然だが。なにやら、“指紋削除”に多大な関心を寄せている何者かが存在していることだけは確かなようである。

 

【4-4】

 「坂本一家拉致」などは、ヘロデにとってまさに一石二鳥の奸計であった。『週間金曜日』誌上に「坂本一家拉致に国家権力が関与していたのではないか」と指摘したレポートがあったが、かなり鋭い指摘と言えるであろう。旧国労絡みの紛争の解決のキー的役割を担っていた坂本弁護士は、オウムの青山弁護士同様、人権派団体青法協の会員であった。オウムの「犯罪」に巻き込まれた人権派坂本という存在は、ヘロデにとって不都合な人権派の弁護士集団、及び取り巻きをオウムに反目させ、いずれ殱滅するオウムの外堀を埋めるのに最高の設定であったと言える。これにお人好しの江川紹子小林よしのり等は見事に嵌められた。このようにみれば、坂本弁解土はオウム問題に関与させられていたことが判る。悪魔の息のかかった告発部隊を利用して、人権派坂本をオウム問題の当事者に祭り上げたのである。坂本一家の消滅は、ヘロデの漁夫の利の象徴であり、オウム侵攻の予備作戦であったのである。

 

 「坂本一家拉致」を侵攻予備段階、「刈谷氏拉致」を侵攻段階とみるなら、「リンチ殺人」は本丸侵略段階と言えよう。そしていずれもがエージェント信者の「自供」により直接、あるいは間接的に本丸に直結させられる性質のものでもある。「リンチ殺人」に関して言えば、地下鉄サリンで首の皮一枚残った麻原に止めを刺すという悪魔の願望が込められたものである。もともとは村井の不慮の生存等により、地下鉄サリン殺人容疑を麻原に直結出来なかった場合の補助機能、安全弁として用意されたものであったが、いまや松本知子を陥落させ、本丸占領のための最有力兵器と化している。

 

保田が関与して落田氏が事件、ないし、事故に巻き込まれたのは事実であろう。この場合、保田の設定によって様々なストーリーを展開できるが確定的と言えるのは、保田は落田氏の死に関して何者かに弱みを握られていたということである。落田氏殺害の主犯保田という嫌疑に関して何者かとの取引があったのではないか。その結果が麻原を主犯にした保田の「供述」というヘロデのシナリオであろう。もちろん、保田自身がでっち上げの供述をさせられた、あるいは第三者のエージェントに嵌められた可能性も考えられなくはない。保田があくまでこの「供述」を貫き通すならこの可能性はなくなるが。麻原に接見した横山弁護士によると、保田の母奪還に失敗して暴れる落田氏をおとなしくさせようと、麻原が中川に命じて柔道技をかけさせたところ、落田氏はグッタリしたという。これが事実なら殺人どころか傷害致死にもならない、不慮の事故ということになる。考慮に入れなければらないのは、麻原オウム邸に拉致目的で侵入した外部の落田氏という状況だ。誰であろうと外部から室内に侵入され暴れられたら竹刀でぶん殴る位の事はするのではないか。柔道の得意な中川が防衛の意味で技をかけるのはむしろ当然と言える。もしそれでやりすぎたところがあるならば、過剰防衛で罪を問われるべきであって、事件に巻き込まれた麻原を殺人者扱いするのはお角違いも甚だしい言えよう。いわんや松本知子に関してをやである。

 

我々が憤怒の念を禁じ得ないのは、坂本一家、松本、地下鉄サリンの犠牲者、刈谷氏同様、不慮の落田氏の死すら麻原攻略の謀略の一つとして利用しようとする“悪魔の体質”である。この不幸な事故は、これをかぎつけた内部のハイエナがヘロデに通告し、“使える謀略”としてサリンと同じく組み込まれたものである。組み込まれたと言えば「警察庁長官組撃」も“そう”である。某ジャーナリストがオウムが起こした平成2・26の一環として関連づけていたが、これは勇み足というものである。オウム信者自衛隊員がクーデターを起こすには、二けたのパーセントの間者がネックであろう。狙撃目的の第一は、ヘロデの仕掛けた無数の謀略の円滑なる発動のための潤滑油の注入以外の何ものでもない。銃器製造疑惑などおまけである。長官狙撃犯の正体が後回しなのは、主要なオウム幹邸はサリン等の奸計で根こそぎにされており、現状の残存オウムのメンバーを犯人にでっち上げるのは、今一つ旨みがないということなのであろう。

 

「VXガス殺人疑惑」「続・青酸ガス未遂」など、オウムに対する謀略はまさに底なしである。VXガスに関しては、我々は新たに“時間差殺人”という裏のシナリオを想定している。ヘロデにとってこれはもう実用段階なのだが、述べるにはそろそろ紙数が尽きてしまったようである。まだまだオウムの殺人疑惑は浮上してくるであろう。今だ捕獲されていない殺人容疑のオウム信者は、ヘロデのでっち上げ要員であり、第三者の不慮のテロの時のスケープ・ゴートである。いつでも捕獲できるこれらの信者を利用して、ヘロデがオウム壊滅の最後の謀略を仕掛けてくる可能性は非常に高い。これが成功すれば“破防法適用”ということになる。だが、いずれにせよ、悪魔がいかなる謀略を仕掛けようと、あるいは欺瞞、詭弁を駆使しようと、最終的にはそのすべては暴かれることになる。我々の最終頭脳を結集させて、『日本象徴殺人体系』、『松本、地下鉄サリンの超真相』『ヘロデ、超謀略のシナリオ』『オウムエージェントの大正体』等がもう間もなく完成予定である。と同時に我々の後に続く覚醒した日本国民からも続々と告発の声が上がることになろう。オウム解散などと呑気な事を言っている場合ではない。オウムが解散しようがしまいが、麻原のいう核攻撃かどうかは別にして、破局は確実に訪れる。その破局をいかに切り抜けるか、悪魔抜きで国民一人一人が考えるときは、今をおいて他にはない。

 

平成7年7月7月  告発の書、代表・岩永 天佑

 

【追加】

追啓1

平成7年7月2月、千葉県富里町のクリーンセンター最終処分場で富里町の富里小1年の男女児童が『水死体』で発見された。真相は、“儀式殺人”である。間違いなく何物かが処刑した後、投棄したか、その場で溺死させたものである。すべての日本人は、日本の子供に、もはや人権はないと気付くべきである。2人はいずれも“7栄”出身であろう。周囲は7栄のつく路線バス停留所だらけである。ボエドの『警告』した7バスに関する血塗られた悪魔の連鎖は戦慄すべきことに今尚機能しているということである。もはや警察云々の次元の問題ではない。日本国民は自分の子供すら守れないのか。認議すべきは、7バスの子供達の末路は、すべての日本人の子供達の末路であるということである。この悪魔の連鎖を阻止するためには、国民一人一人が覚醒しなければならない。○○○○○○○=『ヨシュア記8章』

 

追啓2

 1、アーチャリー狩り、

 1、第ニの村井秀夫、

 1、オウム幹部の拘留死、

 1、ノストラム神聖大師登場

 

真のオウム信者にはこれより以後、筆舌に尽くしがたい試練が持ち受けている。脳波制御の自白強要装置等は既に実用化されている。“そんなSFまがいのもの信じられるか”と笑うのは自由だが、もはや個人の意志は第三者の手によりコントロールされる時代なのだ。現に、“熊取”の一部で既に実験は成功しているのである。捕らわれのオウムの者には、逆洗脳による、裏取引の誘惑等、様々な罠が待っている。精神の内部での戦いとなろう。他の幹部の多くが誘惑に負け、次々脱落していく可能性がある。だが我々は、例え麻原一人になろうとも、麻原が反ヘロデ、真実を貫き通す以上、麻原の側に立つことになろう。我々に裏切りはない。7山におけるサタンとの戦い、これが真の意味でのハルマゲドンなのである。

 

付録

『怪文書の正体』

いわゆる「怪文書」と呼ばれているものについて少しコメントしておく。「怪文書」とは、事実と虚偽とを巧みに組み合わせた装飾的虚像をあたかも真実であるかのごとく媒体を使って流布し、それに洗脳されたあるいはそれを理用した第三者の手を介しての一定の目的の達成、すなわち行為者が対象とする個人あるいは集団に何らかの損害が及ぶよう目論んだ合法的謀略手段のひとつである。従って愉快犯的な脅迫、警告、推理、推測、憶測などは「怪文書」とは言えず、言い換えれば、現実に損害を与えることが確実なものだけが本物の「怪文書」と言えるのである。これは必ず大がかりな謀略の権威を借りたひとつの布石として計画されているからだ。ロッキード事件しかり、リクルート事件もまたしかりである。ただオウムが特異なのは通常五分は事実の含まれる「怪文書」ではなく、1%の事実に99%の嘘で塗り固めている点であろう。その意味でHtoH&T.Kは紛れもなく“本物”である。一連の連作の指摘が現実のものとなったのは全体像を把握している謀略の当事者がその布石として定期的に手の内を明かしていたからに他ならない。『宝島30』6月号に全文掲載された連作のひとつ、元旦の『読売新聞』で公になる前に「松本のサリン散布はオウムの犯罪である」とオウムとサリンを結ひつけた『松本サリン事件に関する一考察』に関しては分析させてもらったが、謀略の全体像を知る何者かが謀略の進展に合わせてリークした情報を、オウム潰しを目論むヘロデ系の政治結社、直属の公安関係者らがさらに反オウムの団体、ジャーナリストらに断片的に再リークしてアクションを起こすように煽り立てた、または直接頼んだというのが真相であろう(もっとも後半、出没した連作は、ほとんど支離滅製であり、作成者の人格が疑われるのだが)。読売の報道はもちろんその駄目押しである。この理解に立てば、江川、小林はともかくとして、少なくとも動機のない「オウムウオッチャー」である有○、○生、二○などは、その存在そのものが、喋る『怪文書』と言えるであろう。

 

この怪文書に関しては随所に本音が散在している。例えばブランチ・デビデアン事件を引き台いに出し、サリンによる集団自殺を「最悪の選択」と認識したうえで、「しかし、自らの意思とは別に肉親が信者であるという理由によって、この選択を迫られる子供たちがいるのであれば、不憫でならない」、「せめて今は、安らかな眠りを得ている子等のために」と念を押し、追伸でしつこく「宗教の名のもとに狂気が、最悪の選択が、行なわれることを防がねはならない」という、劣悪な環境と子供達の身の危険を妙に誇張しつつ、“人権”を意識した大偽善ぶりは何を意味するのか。ヘロデによるオウムの子供略奪再開のための言い訳がまさに上記に符合しているのは果たして偶然なのか。怪文書の作成に、今や疑似○○と化した被○○○○○○(7文字)の一部の影が見え隠れといったところであろう。T・Kとは、たき、ターキと続むのか。7面鳥のことではない。

 

最後に、この封書の“差し出し”名を使わせて頂いたことを感謝したい。この封書の差し出し名、現住所は、いかなる人物、団体にかかわらず、我々とは一切無関係である。あくまで“万全”を期する必要があっことをご理解願いたい。通信の秘密はもはや“ない”のである。

 

〔データ〕

岩永天佑「告発の書」

  含:花木日出夫「ボエド委員会“7山(路線バス)連続象徴殺人”報告書」封筒裏書きの差出人「書泉グランデ」とその住所

  消印:1995年7月7日 神田局

A4判全4枚+1/4

 おそらくA4判で印字した原稿を縦横50パーセント縮小してある。すなわち、1枚に4ページ分。 左上、左下とページが続き、逆向きに右下、右上と続く。4枚分(16ページ)が本文で、1ページ追加という体裁になっている。1ページは48字×50行=原稿用紙ぴったり6枚分。原稿用紙換算で本文96枚、追加6枚、計102枚。本文、追加ともにページの終わりにぴったりと行数を合わせている。

禁則処理について。禁則処理のため一行字数が増えているところが多々あるが、この文書では字詰めを狭くして一行の印字幅は同じになっている。逆に、一行字数が減っているところでは、字詰めは変わらず、空白のまま残っている。

 

なお、データの【1-2】等は、「1枚目の2ページ目」を意味する。この文書を電子データにする際につけたもので、原文にはついていない。